olificeのblog

プログラミングまたはサーバ構築についてのメモ

研究会

研究会第11回、権力はシステムの中でどう作られるか

今週やったこと

先週に引き続きフーコーの権力論、あとフーコー的な真理についてとか

排除と管理
先週に引き続き権力=強制力がどう作られていくのかについて見ていきます。
そのために今週はフーコーによる中世でのペスト病患者やハンセン病患者、また近代における精神病患者の扱われ方の分析を参考にします。

まずペスト病患者の扱われ方について。ペスト病は14世紀頃にヨーロッパで猛威を奮い全人口の3割を死に至らしめ、未だ完全な根絶には至ってない強い感染症です。ネズミやノミを媒介にした強い伝染力があったため感染症者を隔離する必要がありました。そのために14世紀ヨーロッパでは市の衛生管理局が患者を物理的に離れた伝染病院に隔離し、菌が拡散しないよう監視をし、また誰がペスト病にかかっているか確認するため名簿に患者の名前を登録するなどの対処が行われました。
フーコーがここに見たのは排除管理の論理でした。
排除しつつ管理することによる権力の正当性がここでは生まれます。つまりペストを広げないために秩序を維持しなければいけない衛生管理局は民衆(ペスト病患者以外)からの要請によりペスト病患者を排除し管理する権力の正当性(正統性)を得るわけです。
秩序維持のための権力などはこうして民衆からの一般的な要請に従って正統性を得ます。
近代的な病院システムはこういったペストなどの患者を監視し管理するために生まれパノプティコンと同じくやがて個々人に権力を内面化していきます。つまり個々人の行動を内面的にコントロールするミニマムな権力が患者をそこらに放っておく「未分化の状態のカオスを分化していくはたらき」(フーコー)をするということです。医療などの人間の生を管理するシステムは何が治療対象で何がそうでないのかを管理することでカオスの未分化状態を分化状態にしてきました。その過程でハンセン病患者の隔離や精神病院の閉鎖病棟などが生まれるわけですが、今では差別的と言われるこういった病気への対処は医学的事実の誤解があっただけではなく医療システムの権力の内面化による事実の歪曲がありました。
この「カオスの未分化を分化するはたらき」というのはラカンの言う想像界から象徴界への去勢みたいなものかなぁと思いました。

映画「es」で被験者が囚人と看守という擬似的な関係を次第に内面化していったように権力というのは当初は環境=システムに宿り、それが環境の一部である私たちに次第に内面化していくということが言えます。XがYに対する強制力をもっているという関係性を強制する方も強制される方もシステム維持のために内面化していく。しかもこれはどちらかというと私たちが自ら進んで自発的に。そして内面化された権力は自分に対するミニマムな権力として私たちの価値観や行動をあたかもそれが自明なものであったかのようにコントロールするため抗いづらいと言える。

こうして見ると最初は民衆の要請に従って作られたシステムが必要に迫られ排除と管理の力をもつことでその権力の正統性を獲得し、やがてそのシステムの価値を私たちが内面化していくことでシステムがさらに自己生産的に維持されるということがペスト病患者とその対処をするための病院というシステムに見ることができるのではないでしょうか。こういったシステムをフーコーは学校制度などにもみていくわけですがそれはまた今度。

研究会第10回 「権力」

今回は権力とそれに絡んだパノプティコンの話。
先生の口からパノプティコンという言葉が出そうで出なくてなんかむずむずした笑

 パノプティコン

 
・パノプティコンとは何か

 パノプティコン、もしくはパンオプティコン(Panopticon)は邦訳すれば全展望監視システムのこと。すべてを(pan-)みる(-opticon)という意味である。イギリス哲学者ジェレミ・ベンサムが弟サミュエルに示唆を受け設計した刑務所その他施設の構想であり[1]、その詳細が記された『パノプティコン』が1791年に刊行されている。

パノプティコンとは囚人を効率的に監視するために設計された刑務所のことです。看守からは囚人の姿が見えるけど逆からは見えないという非対称的な性質がこの施設のポイントです。
まず囚人の入る部屋はそれぞれ区切られており囚人同士お互いの姿を見ることができません。また、特に重要なのが施設の中央に位置する監視塔で、その塔の窓は常にブラインドで遮られており中に看守がいるのかどうかさえ分かりません。しかし監視塔の中からは自由に囚人の姿が見えます。つまり囚人は常に見られているかもしれない状況にいるわけです。そうするとどうなるかというと、実際に見られているかどうかに関わらず囚人は「もしかしたら看守に見られているんじゃないか?」と意識しつつ行動することになります。この見られているかもしれないという意識が囚人を自らをもって自分自身を監視させ、結果的に看守の人員を減らす事が出来効率的な施設の運営が可能になるわけです。
功利主義者であったベンサムにとっては経済的かつ囚人に規範意識を与えることが出来るこの刑務所は理想だったのでしょうがまさにこれがフーコーが現代社会に見た権力の縮図でした。
視点の非対称性が生み出した自分自身を自ら監視させるシステムは囚人の心の中に「自分を監視する自分」を生み出し自由な行動を制限するものでした。そしてフーコーはこれを学校や病院、工場などにも見ていきます。
大ざっぱに言って18世紀以前の封建制の時代には人間を管理する人間(王様)というのが明確いたけど、それ以降の民主主義の時代には人間を管理するのはあくまでその人自身ということになりました。
つまり封建制の時代にあった生殺与奪の権を握る専制君主などの大きな権力が民主主義の時代になってからは個々人を自分自身で監視させる視線という名のミニマムな権力に変わったということです。
現在ある価値観や善悪、規範などの考古学的な歴史をこういった視線を生み出す学校制度や病院、工場などの近代的なシステムから読み取ろうとしたのがフーコーの仕事の一つです。

・権力は醸成されるもの?

権力がその場その場で作られるものだという話も出てた。「醸成」されるものというと山本七平の「空気の研究」を思い出す。
「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))
著者:山本 七平
販売元:文藝春秋
発売日:1983-10
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日本人論として結構おもしろかった気がする。その場その場で醸成される空気というのが絶対的な権力のように振る舞うのはなぜなのか。フーコーを思い出すとこれもパノプティコンの一種なのかと思う。空気はいつもなにかを自分たちに強制してるように見えるが実際にそういった空気があったのかどうかは後になってみれば分からない。この何かを強制させる「空気」の非対称性がパノプティコンに似てるなぁと思った。

研究会 テーマ「権力」

今週は研究会がお休みらしいのでテーマ「権力」について何か書くということになりました。
まず権力とは何か。概念的なことをいったら話が広がりすぎそうなので辞書的な定義から。

けんりょく【権力】
他人を支配し従わせる力。特に国家や政府が国民に対して持っている強制力。

power ((over)); 〔公的に認められた力〕authority ((over)); 〔勢力〕influence ((over, with)) by goo辞書

他人を自分のコントロール下に置ける力というのが辞書的な意味です。普段僕たちが持っている「権力」という言葉のイメージもこれに当てはまるのではないでしょうか。
国家や政府が国民に対して持っている強制力
という言葉からも、持つことが出来るもの、所有することが出来るものというイメージを持てます。またgoo辞書の定義ではマクロな権力(国家権力)のことを言っているけど、ミクロな権力(自己の権力)という物もあります。そしてもっと一般的に言えば何かを人に強制することが出来る力と言えます。

ではその何かを人に強制することが出来る力というものの正体は何なのでしょうか。
例えば、ある先生がうるさい生徒に対して静かにしなさいと言う。それに対して静かにする生徒もいればしない生徒もいる。それはその先生が本気で言っているのかそうでないかというのを生徒も見てるし、静かにしなかったからといって大変なことになるわけではない、と高を括っていたりするからです。
ここでは静かにすることを強制できる力が先生にはありません。つまり「権力」がありません。
また例えば、隣の家から流れる音楽がうるさいから静かにするよう注意に行ったとします。しかし、隣の家の人はそんなうるさいことをいうのはあんただけだといって取りあってくれません。
この場合も隣の家の人に静かにすることを直接的に強制できる力はありません。つまり「権力」がありません。
こうやって見ると、個々人にはほとんど権力というものがありません。
しかし例外で権力を持っている人もいます。
あまりにうるさい生徒がいたら厳重処分ということで停学にすることが出来る人がいます。校長先生です。
あまりに迷惑なうるさい隣人がいたら訴えて静かにさせることが出来ます。裁判所です。
もちろんこういうことが出来るのはそういった強制力を国に法律で保障されているからです。もし保障されていないこと、つまり違法な強制力を行使すれば誰でも警察という強制力によって逮捕されてしまいます。このことから強制力=権力は所属する共同体によって与えられるものだと言えます。
しかしこの権力が共同体によって与えられるというモデルは正しくありません。少なくとも現在の社会では私たちが共同体に権力を与えているというべきです。18世紀市民革命で絶対君主に唯一の権力を与えて社会を維持するという社会契約論のモデルは崩壊し、以降新たにルソー流社会契約論に従った、社会の構成員が国家共同体に権力に委譲し立法者を立てた上で社会を維持するというモデルが使われています。つまり私たちが持っている力=強制力を共同体に委譲したうえで、その上で共同体を監視し維持しようというモデルの上に現在の社会は成り立っているわけです。
つまり権力というのは私たちが自然に持っている力、腕を伸ばし物をつかむ、人を殴る、物を盗む、人を殺す、そういった強制力=権力を共同体に管理を委任したもの、というのが現在の社会が従っている権力のモデルです。
しかし私たち一人一人も共同体の一員である以上その権力を管理するのも私たちというわけです。現実的にはいちいち他人が行使する権力まで管理することは出来ないため、立法、司法、行政に三権を与えてさらにそれらに相互に監視させることで権力が暴走することを抑えています。

つまり個々人の権力が暴走しないように個々人の権力を共同体に与えた、というのが社会契約論による権力の分散モデルです。
ではそうすることを強制させたのは何か。
ベンヤミンによるとそれは神話的暴力と呼ばれています。今ある強制力がなんらかの強制によって生み出されたものである以上それには最初の暴力があった。現在の市民社会があるのはアメリカ独立戦争なりフランス革命なり最初の暴力が存在したからであってでそれによって現在の強制力=権力の正当性(正統性)が保障されているということです。平和的な話し合いがあったわけでもなくなんらかの暴力があって強制力を強制力をもって排除したという例外が民主主義の起源として存在しているということです。

そうした歴史を踏まえた上で権力とは何かというのを改めて考えると、今ある自明の権力=強制力について疑問を持つというのはいずれにしろ重要なことなのではないでしょうか。権力の起源も権力だというそれ自体再帰的な構造に疑問を持つことや、もしくはそれは本当に正しいのか。なんのために権力を共同体に委譲しているのか。そもそも権力を本当に委譲しているのか。考え出すと切りがないですが、権力論はなんかいろんな問題がからんでくる感じがするので嫌いではないです。

あ、あと権力といえばセキュリティが熱いですね。これもあずまんがミニマムな権力論として捉えていたような気がする。最近はあんまそっち方面発言してくれてないけど・・

研究会第8回 情報の歴史

情報の歴史―象形文字から人工知能まで (Books in form (Special))情報の歴史―象形文字から人工知能まで (Books in form (Special))
著者:編集工学研究所
販売元:NTT出版
発売日:1996-04
おすすめ度:5.0
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初参加なのでなにやるか分からないなりに考えてみた結果、情報の歴史でもやるのかなぁと思っていたら予感が的中!w
そういえば松岡正剛がそんな本書いてたなぁと

改訂新版 コンピュータの名著・古典100冊改訂新版 コンピュータの名著・古典100冊
著者:石田 晴久
販売元:インプレスジャパン
発売日:2006-09-21
おすすめ度:4.0
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コンピュータの名著・古典100冊でも紹介されてます。これは良いブックガイドなのでオススメです。ていうかコンピュータ関連のブックガイドが少なすぎてこれしか選択肢がないという・・・

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研究会第8回 「情報の歴史」

1.オーラルコミュニケーション
2.図形と文字
3.写本と物語
4.活版印刷
5.産業革命
6.鉄道・通信
7.熱力学
8.電話電気
9.自動車
10.情報ゲーム時代
11.コンピュータトランジスタ
12.家電
14.マルチメディア
15.PC
16.WEB

大まかな流れはこんな感じ。太字は重要な変化。

そもそも「情報」とは何か。学問的な意味での「情報」という概念はつい100年ほど前に物理学に出現したもので何百年も昔から「情報」という概念自体があったわけではない。ニュートンの物理学だけでは分からない量子力学が問題になりはじめた時だ。量子を観察すると観察したこと自体によって量子が変化するという量子の性質を記述するために「情報」という概念が生まれた。それまでの物理学では観察者がニュートンの物理学に沿って観察対象を正確に記述すれば世界は全て記述出来ると思われていたので、量子の性質が明らかになって改めて観察者と観察されるものの関係が問われることになったのだ。言葉自体の歴史はその関係を「情報」と呼んだことに由来する。
また西垣通によると情報とは生物が世界と関係することで出現するものであり、大きく「生命情報」、「社会情報」、「機械情報」とに分けられるようだ。
生命情報とは、生物が生きていくために必要なる情報のことでどこに食べ物があるとかどこに飲み物があるとかいう生物にとって意味のあるもののことだ。社会情報とは、その情報が存在する社会、共同体によって意味の規定された情報のことだ。例えば[ai]という発音は英語圏では「I」(私)だが日本語では「愛」という意味になるように。また機械情報はコンピュータ内の1と0の羅列のようなものでそれ自体はどの社会に属する人間が見ても一見意味の分からないものだ。ただそれには意味がないというわけではなくコンピュータが読み取れば文字になるので意味が潜在化していると言ったほうがいい。

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)
著者:西垣 通
販売元:岩波書店
発売日:2007-05
おすすめ度:4.0
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オーラルの時代にはその人が喋ること自体が重要だったが図形と文字の時代にはその価値は変わった。その人自体の言葉の重要性は薄れて図形と文字に価値が与えられた。どこに食べ物があるとか言わなくても地面に食べ物の場所を書いておけばよくなったからだ。
写本と物語の時代には価値のあった情報だったものは活版印刷の時代には同じ価値はなくなった。ただ一つの本や物語の重要性は薄れて大量に印刷されたものに価値が与えられた。わざわざ一つの本を写経しなくても簡単に同じ本が手に入るようになったからだ。
情報の価値は技術の変化によって決定されるようなものだった。

----------------中略-----------------

長くなったので略。続く?